二世週祭は南カリフォルニアのコミュニティ団体をはじめ、姉妹都市である名古屋市を含む多くの方のサポートで開催されます。
二世週祭スポンサー
二世週日本祭は、企業とコミュニティ団体からの寛大なご寄付と支援を受けています。二世週祭の伝統を続け、広めていけるのは、こうしたパートナーシップのおかげです。

二世クイーン候補者スポンサー
南カリフォルニアにあるコミュニティ・センターおよび団体がそれぞれ、二世クイーン&コート・プログラムの候補者のスポンサーとなっています。
East SGV Japanese Community Center
East San Gabriel Valley Japanese Community Center (ESGVJCC)
The East San Gabriel Valley Japanese Community Center (ESGVJCC) is a not for profit organization dedicated to foster and preserve the cultural heritage unique to Japanese American ancestry; and to serve the community through social services, artistic, recreational, and educational programs. ESGVJCC has been bridging culture, family and community since 1936.
Gardena Evening Optimist Club
Gardena Evening Optimist Club (GEO)
The Gardena Evening Optimist Club (GEO) has been an active and vital service organization in the South Bay area of Los Angeles for the past 56 years. The Optimist Club’s motto is “Friend of Youth”, and we demonstrate this friendship through our various youth programs and activities. Our GEO Oratorical and Essay contests for kids under 18 years of age, Respect For Law Scholarships for high school students pursuing a career in law enforcement, and Youth Appreciation Awards for students excelling in community service are just some of our activities. We also actively support the Optimist Youth Home, Optimist Junior Blind Olympics, Gardena Valley Sansei League, and Boy Scouts Troop 683.
Japanese Restaurant Association of America
Japanese Restaurant Association of America (JRA)
The mission of the Japanese Restaurant Association of America (JRA) is to represent, educate, and promote the Japanese food/beverage industry in the United States. The association offers education and business resources to its members, and also promotes Japanese food to the general public through events such as their annual JRA Food Festival in November and Summer Golf Tournament.
Orange County Nikkei Coordinating Council
Orange County Nikkei Coordinating Council (OCNCC)
The Orange County Nikkei Coordinating Council (OCNCC) is a 501(c)(3) nonprofit corporation that serves as an umbrella organization for the following nonprofit Nikkei community service groups: Orange County Japanese American Association (OCJAA), Orange Coast Optimist Club (OCO), Orange Coast Sports Association (OCSA), Orange County Queen’s Council (OCQC), South East Youth Organization (SEYO), Suburban Optimist Club (SOC), South East Los Angeles/North Orange County Japanese American Citizens League (SELANOCO JACL), and the Kazuo Masuda VFW Post 3670. OCNCC provides a conduit through which its members can tap into each other’s resources to expand the scope and reach of their individual events, to better serve the community.
Pasadena Japanese Cultural Institute
Pasadena Japanese Cultural Institute (PJCI)
The Pasadena Japanese Cultural Institute (PJCI) exists to support Japanese cultural activities and organizations in the greater Pasadena community. The purpose of our organization is to preserve and promote the awareness of and the appreciation for Japanese language and culture.
San Fernando Valley Japanese American Community Center
San Fernando Valley Japanese American Community Center (SFVJACC)
To preserve the Japanese culture and to promote the Japanese American experience through education, events, and activities.
The San Fernando Valley Japanese American Community Center is conveniently located off the 5 freeway on 5 acres with great cross generational programs for healthy living, gym, meeting rooms, and plenty of parking.
Venice Japanese Community Center & Venice-West Los Angeles JACL
Venice Japanese Community Center (VJCC)
The Venice Japanese Community Center was established almost a hundred years ago to preserve, share and promote Japanese and Japanese American culture.
Venice-West Los Angeles JACL
Serving the West LA and Venice/Culver area to fulfill the JACL mission to secure and maintain the civil rights of Americans of Japanese ancestry and all others, and promote and preserve the cultural values, heritage and legacy of the Japanese American community.
二世週表彰者
二世週祭グランド・マーシャルは広く日本人/日系アメリカ人コミュニティーに大きな影響を与えた人物を表彰するものです。
ジョージ・K・スギモト
ジョージ・K・スギモトは、1926年6月、フレズノ郡パーリエに生まれた。1920年代から30年代にかけてのサンホアキンバレーでの生活は、9人の子供を養う一家にとって厳しいものだった。両親は農場で日雇い労働者として働き、生活の糧を得ていた。
ジョージは幼少の頃に航空に興味を持ち始め、この情熱が航空電子工学の道に進むきっかけとなった。ファウラー高校で1年間勉強した後、大統領令9066号によって、一家はヒラリバー強制収容所に収容された。
兄は徴兵され、第442連隊戦闘団に従軍していた。ジョージも忠誠登録の2つの質問に「イエス、イエス」と答えて徴兵され、1945年3月に兵役に就いた。1945年8月、テキサス州キャンプ・ファニンで基礎訓練を受けた後、韓国に派遣され、第6陸軍職業部隊に所属することになった。そして名誉除隊後、カリフォルニアに戻った。
1947年、シカゴのアメリカン・インスティテュート・オブ・テレビジョンテクノロジーに入学。1950年、電気工学の学士号を取得後、飛行教習を修了し、計器用操縦士になった。30年にわたってパイパー・ターボ・エアロ機を操縦し、飛行への情熱を満たした。
1951年9月、フレズノでマリ・ヒラノと結婚後まもなく、パサデナに引っ越した。カリフォルニア州の電気技師免許を取得し、電気技師としてのキャリアを開始し、一時はチーフエンジニアまで昇格した。しかし他人の下で働いていると創造性や経済的な余裕がなくなることに気づき、独立して自らのビジネスを始めた。
パサデナのジョージの自宅とガレージが、アビオニクス部品の設計と製造の始まりとなった。KGSエレクトロニクス は62年以上の歴史を持ち、現在はアーケディアに50,000平方フィートのスペース、アップランドにも施設を構えている。KGSは、民間航空、一般航空、軍事航空向け、また世界中の相手先商標製品製造会社(OEM)の顧客に製品を提供している。セスナ・エアクラフト、EADSエアバス、ボーイング・エアロスペース、リアジェット、ロビンソン・ヘリコプターなど、多くの航空機メーカーや航空宇宙企業がKGSの顧客である。
セミリタイアしたとはいえ、ジョージはほぼ毎日オフィスにいる。また、ボランティア活動も積極的に行っており、多くの地域団体を支援している。主だったところでは、JACCC、ゴーフォーブローク全米教育センター、全米日系人博物館、リトル東京サービスセンター、旧敬老、羅府新報ファウンデーション、ロブ・フクザキ・ヘッズアップ・ユース・ファウンデーション・トーナメント、オーロラ・ファウンデーション・トーナメント、サバーバン・オプティミスト・トーナメント、東サンゲーブリエルバレー日系コミュニティーセンター、秋祭りトーナメントなどである。
ジョージとルリには、リサとネイサンという2人の子どもがいる。リサはカリフォルニアのコミュニティーカレッジに35年勤めた後、退職した。ドン・ノーズと結婚し、ギャレットの両親でもある。ネイサンはKGSエレクトロニクスの社長兼最高財務責任者である。クリスティン夫人との間には、リンジー、アリッサ、アーロンの3人の子どもがいる。
リサとネイサン、そして彼らの家族は、父と祖父のレジリエンス、勇気、起業家精神、そして家族とコミュニティーへの不朽の愛と揺るぎないサポートを賞賛している。
二世週祭パレード・マーシャルは当地の日本人/日系アメリカ人コミュニティーに大きな影響を与えた人物を表彰するものです。
マイア&アレックス・シブタニ
マイア&アレックス・シブタニ兄妹は、2度のオリンピック銅メダリストである。また、3度の世界メダリスト、四大陸チャンピオン、2度のアメリカ国内チャンピオン、6度のグランプリ金メダリスト、2度のアメリカオリンピックチームメンバー(2014年、2018年)でもある。
アジア系フィギュアスケーターとして初めてオリンピックでメダルを獲得し、アイスダンスの歴史に名を刻んだ。平昌では兄妹で2つのメダルを獲得した初のアイスダンスチームとなった。
兄妹は2020年に 『クドー・キッズ:仮面メダリストの謎』を上梓し、作家デビューした。2021年には中学生向けシリーズの2作目『工藤キッズ:マンハッタンの謎』が発売された。彼らの次の文学プロジェクトは絵本で、『アメージング:私たち皆にインスピレーションを与えたアジア系太平洋諸島系アメリカ人』の刊行が2023年春に予定されている。
マイアとアレックスは、2017年に米国国務省のスポーツ特使に任命された。それ以来、彼らはアジア各地を回り、親善イベントで若者とつながりを築いてきた。また、二人は世界的な組織である「ライト・トゥ・プレイ」のアスリートアンバサダーも務めている。2021年には、アレックスはLA28アスリート・コミッションに任命された。
彼らはAAUサリバン賞の最終選考に残り、チームUSA月間最優秀チームを5回受賞し、アジア協会ゲームチェンジャー賞を受賞し、ゴールドハウスA100リストの栄誉に輝いている。
二世週祭パレード・マーシャルは当地の日本人/日系アメリカ人コミュニティーに大きな影響を与えた人物を表彰するものです。
ケリン・アコスタ
ケリン・アコスタは、メジャーリーグ・サッカー(MLS)のロサンゼルス・フットボール・クラブ(LAFC)でプレーする26歳の守備的ミッドフィルダーである。彼はまた、米国男子代表チームでプレーし、米国が2022年FIFAワールドカップの出場権を獲得するのに貢献した。11月に開催されるワールドカップに出場することになれば、ケリン選手は日本人を祖先に持つ選手として初めてワールドカップで米国を代表する。
テキサス州プレイノー出身のケリンは、ダラス・フットボール・クラブ(FC)のアカデミーで育てられた。16歳(2012年)でダラスFCのトップチームと契約し、翌年メジャーリーグ・サッカーでプロデビューを果たした。ケリンは、2度のMLSオールスター(2016年、2017年)、2度のコンカフ・ゴールドカップ王者(2017年、2021年)、コンカフ・ネーションズリーグ王者(2021年)、ラマー・ハント米国オープンカップ王者(2016年)、MLSサポーターズ・シールド優勝者(2016年)でもある。
ケリンは、そのファッションセンスで知られ、リーグ全体で「ベストドレッサー」に選ばれる可能性が高い。日系人でもあるケリンは、最近、父親と日本生まれの祖母と一緒にロサンゼルスの全米日系人博物館を見学し、素晴らしい体験をした。ピッチにいないときは、好奇心旺盛でエネルギッシュな幼児の父親として、地元のコミュニティーに参加し、新しい靴を買い、新しいワインを試し、ロサンゼルスを探検するなど忙しい日々を送っている。近くのコーヒーショップでラテを楽しんでいる姿を見かけることもあるはずである。
パイオニア・スピリット・アワードは、長年にわたってコミュニティーで献身的にボランティア活動を行い、日本人/日系アメリカ人コミュニティーのリーダーとして活躍してきた人物に贈られます。
ケネス・サダオ・ハヤシ
ケネス・サダオ・ハヤシはユタ州オグデンに1943年7月に生まれた。ハヤシ家はアーカンソー州ローワー強制収容所に送られた後、オグデンに仮住まいし、戦後ロサンゼルスへと戻った。
ロサンゼルスでケンはドロシー高校、そしてUCLAに進学し、1966年に会計学士号を取得した。ボーイスカウトではイーグルスカウト賞を得て、友人やいとこたちとバスケットボールや野球、ビリヤードの腕を研いてよく遊んだ。
1966年9月、卒業直後に徴兵され、米国陸軍に入隊した。モントレーベイのフォートオードで基礎訓練を終え、サウスカロライナのフォートジャクソンの会計局に勤務し、アラバマ州のフォートマクレランの第3陸軍NCO学校を優秀卒業生として終えた。1967年夏にはベトナムに派兵され、1968年8月まで第4師団に従軍。陸軍栄誉勲章を受け、1968年アメリカ帰国と共に名誉除隊した。
除隊後は、彼のメンターであり友人のエドウィン・ヒロトと共に、シティービュー・ホスピタルと敬老ナーシングホームのアシスタント運営者そしてCFOを11年にわたって務めた。同僚と兄弟と共に会計事務所のパートナー(1979年〜1992年)となるために敬老を離れたものの、日系アメリカ人コミュニティーに対する敬老の活動を大切なものと考えており、その支援グループ「ビジョンズ・フォー・ケイロー」の設立メンバーの一人となった。当時、彼はパシフィック・ヘリテージ・バンクの理事会の副理事長も務めた。
また、ボーイスカウトとインディアンガイドのリーダーとしてもボランティアに精を出した。ヨーバリンダ・バスケットボール・リーグ運営にも長年関わり、エスペランザ高校ブースタークラブでもボランティアを行った。バスケットボールと野球のコーチも務めたが、むしろ3人の子どもたちの熱心な応援者であったというほうが正しいだろう。子どもたちが関わった、サッカー、バスケットボール、野球、バレーボール、音楽活動、その他のさまざまな活動やチャリティー活動を支援した。
これらを可能にするため、ケンは1992年に自身のCPA会社を自宅からごくわずかの距離、かつ彼や妻、子どもたちが多くの時間を過ごした高校から1マイルのところに開いたのである。
子どもたちが皆、高校を卒業すると、自営業をたたみ、2018年10月にリタイアするまでロジャーズ・ポウルトリーのCFOを務めた。そこからもケンの日々は相変わらず忙しい。ケンと妻は二世週日本祭とそのホスピタリティー委員会で献身的に活動している。彼の2人の娘は二世週プリンセス、息子は二世週祭財団の委員長を務めた。さらに、彼にとっては最も個人的に大切なことであるが、日系アメリカ人退役軍人のレガシーを確実に伝えていくために並々ならぬ力を注いでいる。日系アメリカ人ベトナム戦争退役軍人記念同盟の委員長であり、非営利団体である日系米国人退役軍人慰霊碑の理事長でもある。これらは彼の情熱がほとばしるプロジェクトで、将来にわたって慰霊碑の構造とスピリットが保存していけるよう団体を設立するために数多くの年月を費やしたのである。
ケンはコリーン(イシバシ)ハヤシと結婚47年目であり、35年にわたるヨーバリンダの十人である。3人の子ども、キンブリー(エリアス)、クリスティン、コーリーがいる。ドジャース、クリッパーズ、UCLA(そして子どものためにUSCも)の試合にもしばしば出かけ、家族のパーティーを開催したり、旅行をしたり、愛犬のコッパーの散歩を楽しんでいる。
パイオニア・スピリット・アワードは、長年にわたってコミュニティーで献身的にボランティア活動を行い、日本人/日系アメリカ人コミュニティーのリーダーとして活躍してきた人物に贈られます。
マサオ・モリサク
マサオ・モリサクは1937年に茨城県に生まれ、1966年にロサンゼルスに移住した。1972年には工業デザイン会社に入社。同社での仕事を通して、今日にも使われている数多くの製品のデザインを手掛けた。
1975年、造園やガーデニングを本格的に学ぶべく、エッジウッド日系造園協会に入会。同協会の書記、その後は長く会長職を務めた。会長としてエッジウッド協会を率いている間、マサオは南カリフォルニア庭園業連盟(SCGF)でのボランティアに積極的に関わり、日系コミュニティーに貢献した。その中には、1974年に始まった敬老リタイアメントホーム(リンカーンハイツ)の美化プロジェクトもあり、同プロジェクトは34年にわたって継続した。
2010年から2020年にかけては月刊誌「ターフ・アンド・ガーデン」の日本語編集長を務め、SCGFアワードを受賞した。このニュースレターは英語と日本語による、日系アメリカ人コミュニティーでは数少ない月刊刊行物の一つで、SCGF会員(2010年には1,000名以上)のコミュニケーションになくてはならない役割を果たしている。マサオは現在SCGFの副会長を務めている。
彼はまた他の造園クラブや団体にも関わっている。1998年にはアメリカン植物剪定グループに参加し、東サンゲーブリエル日系コミュニティセンター、シティ・オブ・ホームなどで松の剪定を行ってきた。2010年には友人たちと共に南カリフォルニア樹木剪定クラブを結成し、2013年、2014年、2015年と会長を務めた。ロサンゼルス各地の日本庭園の維持にも力を注いでおり、剪定に出向いたり、SCGFのビルで剪定のデモンストレーションを行なったりしている。
さらに、故郷の県人会でも活発に活動しており、茨城と南カリフォルニアの友好関係を築いてきた。1978年には茨城県人会「常陸の会」を設立し、複数回にわたって会長を務め、現在はアドバイザーである。また茨城県水戸にある梅で有名な庭園、偕楽園とハシエンダハイツにあるシャバラム公園の間の姉妹公園協定締結には、彼の助力があった。そして茨城県の人々や企業の支援と寄附により、シャバラム公園に梅の苗木を植えることも可能になった。これらの梅の木は、今も毎年2月初めには美しい花を咲かせる。
マサオは趣味の詩吟を通して、日本文化を普及させ、日米関係に貢献してきた。40年以上にわたって日本の伝統的な詩を吟じてきたのである。現在は羅府国風会のシニア・インストクターを務めている。2011-2012年には南カリフォルニア詩吟連盟理事長としてこの日本の伝統文化のアメリカでの普及に務めた。また東日本大震災・津波の際には、詩吟連盟日本救援基金の組織に尽力した。
マサオの妻のノリコもSCGFで活動しており、日本語編集者また会計監査人を務めている。
パイオニア・スピリット・アワードは、長年にわたってコミュニティーで献身的にボランティア活動を行い、日本人/日系アメリカ人コミュニティーのリーダーとして活躍してきた人物に贈られます。
マイク・イチロウ・ムラセ
岡山県で幼少期を過ごしたマイク・イチロウ・ムラセは、9歳の時に家族と共にロサンゼルスに移り、英語を学び、学校に通い、新しい生活へと適応した。
その傑出したキャリアにおいて、作家、写真家、アクティビスト、運営責任者、弁護士とさまざまな仕事を行ってきた。どこにいっても、そのコミュニティーと彼が共に働いた人々に、その後も長く続くポジティブな変化を起こすのがマイクだった。
1960年代から、マイクはコミュニティーと政治的活動に関わり、UCLAの学生としてさまざまに社会を変革してきた。UCLAのアジア系アメリカ人研究センターの共同設立者の一人であり、アジア系アメリカ人のルーツを学びたい学生のために道を切り拓いた。またアジア系アメリカ人運動の雑誌「GIDRA」の共同設立者の一人でもある。さらにアジアン・アメリカン・フォー・ピース、ロサンゼルス南アフリカ解放運動、カリフォルニア・レインボー同盟の代表も務めた。マイクは日系アメリカ人コミュニティーに関与してきただけではなく、20年以上にわたりサウス・セントラル・ロサンゼルスの地域コミュニティーのまとめ役でもあった。13年にわたってマキシン・ウォーターズ連邦下院議員の選挙区ディレクターであり、ジェシー・ジャクソン牧師の大統領選キャンペーンのディレクターも務めた。
マイクは、リトル東京をはじめロサンゼルス各地の日系アメリカ人のコミュニティーに対し、社会福祉やコミュニティーの経済開発支援サービスを提供するリトル東京サービスセンター(LTSC)を設立した中心グループのメンバーであり、設立当初5年にわたり理事長を務めた。その後、LTSCでスタッフとして働くに至る間も、リトル東京のコミュニティーに関わり続けていた。LTSCでは社会福祉プログラムのディレクター、特別プロジェクトのマネージャー、またテラサキ武道館のキャンペーンディレクターとして働いた。30年におよぶ悲願の武道館を実現するため、LTSCが3000万ドル近く資金調達するのに欠かせない役割を果たした。
また日系福祉権協会、リトル東京人権協会、リドレスと補償を求める全米連合などの団体を支援している。著書には『リトル東京:100年の歴史 – リトル東京の豊かな歴史と発展へのトリビュート』がある。
2022年3月、マイクはLTSCをリタイアした。4月14日に開催されたリタイアメントを祝う会にはマイクの人生のさまざまな局面で関わりのあった150人以上が参集し、リトル東京やサウスセントラルのコミュニティーを活性化させ、橋渡しをしてきたことを労った。マイクの長年の友人の一人で詩人のロナルド・カートゥーン・アントワインが朗読した、心情を見事につづったトリビュートがそれをよく表している。
君は僕らに立ち上がること教えた
君は僕らに声を上げ、決して黙らないことを教えた
君はたくさんの人に闘い方を教えた
不正義、不正、人生の悲観的な出来事にも…
マイクはリトル東京のために立ち上がり、そのコミュニティーの最も力を持たない人々の声が聞き届けられ、その人々が必要としているものが手に入るようにと決して闘いを止めなかった。LTSCにおけるキャリアからは身を引くものの、今後も彼は若いリーダーたちのメンターとなり、アメリカに現存する3つの日本町の一つであるリトル東京が生き続けるよう、未来を確実なものとしていく。
パイオニア・スピリット・アワードは、長年にわたってコミュニティーで献身的にボランティア活動を行い、日本人/日系アメリカ人コミュニティーのリーダーとして活躍してきた人物に贈られます。
ヨシオ・ナカムラ
ヨシオ・“ヨシュ”・ナカムラは、米陸軍での名誉ある従軍、数々の重要な施設設立への関与、そしてアートにおける功績など、その半生において多様な分野で影響を与えてきた人物である。
1944年、ヨシオは予備役に徴兵され、ヒラリバーから軍に入隊した。フロリダのキャンプ・ブランディングでの基礎訓練の後、フランスに送られ第442連隊戦闘団に合流。南フランスで軍事行動を行い、その後、イタリアのゴシックライン突破でも戦った。
ブロンズスター勲章、戦闘歩兵章、オークリーフクラスター付き大統領部隊表彰、議会名誉黄金勲章、三戦星付きヨーロッパアフリカ中東リボン、善行章、戦勝章、フランスのレジオンドール勲章など、その軍務に対して数々の表彰を受けている。2015年のローズパレードでは「ゴーフォーブローク」のフロートに乗る5人の二世退役軍人のうちの1人に選ばれた。
兵役を終えた後は、GIビルを使って南カリフォルニア大学に進学。B.F.A.(マグナカムロード、つまり極めて優秀な成績で卒業)とM.F.A.を取得した。ウィッティア高校の美術科の教師として働き始め、その後、リオ・ホンド・カレッジの教授に就任。リオ・ホンドでは、ビジュアル&パフォーミング・アーツ部門の創設者、運営者、副学長として活躍した。彼の人生のほかの分野と同様に、教育者としては年間優秀教師や優れたアメリカの教育者、フェロー・オブ・ザ・カレッジなど多くの評価や表彰を受けている。
ヨシオと妻のグレースは日系アメリカ人コミュニティーでも活発に活動してきた。二人ともSELANOCO(東南ロサンゼルス北オレンジカウンティー)JACLのメンバーであり、ヨシオは初期のSELANOCO支部設立ミーティングをリオ・ホンド・カレッジで開催できるよう取り計らった。彼はまたゴーフォーブローク全米教育センターと全米日系人博物館の設立メンバーでもある。
アーティストとしては、スミソニアン協会のジョセフ・ヒルシャホーン・コレクションをはじめとする175以上の個人、企業、公共のコレクションに作品が収蔵されている。
現在もアーティストとして活動を続けており、ヒルクレスト会衆派協会、リオ・ホンド・カレッジ、ウィッティア高校におけるアートのコミュニティーの支援者でもある。これまで文化委員、諮問委員会、ヒルクレスト・ファインアーツ・フェスティバルでも働いてきた。
パイオニア・スピリット・アワードは、長年にわたってコミュニティーで献身的にボランティア活動を行い、日本人/日系アメリカ人コミュニティーのリーダーとして活躍してきた人物に贈られます。
大川平三郎
大川平三郎は1939年生まれの東京育ちで、1962年に中央大学を卒業した。中央大学在学中にフェンシングを始めて選手となった。フェンシング界に極めて大きな功績を残すこととなる平三郎の旅は、ある日、彼がそのチームに参加したいと申し出たところから始まった。
当時、中央大学はフェンシング界で日本一の覇者。スタートの遅かった平三郎がチームに参加できるチャンスはごくわずかであった。しかしながら、その類まれなる才能と決意によって平三郎は大学のチーム入りし、さらには1960年夏のローマ・オリンピックの日本チームの一員にもなるのである。この1960年オリンピックは、日本フェンシングチームにとって初めての五輪参加であった。
1962年、日本フェンシング協会は1964年東京オリンピックに備えて、平三郎とチームメイトをパリの国立スポーツ体育研究所に留学させる。この欧州留学中に平三郎は2つの権威ある国際的大会、フルーレ・チャレンジ・デュバル・パリ大会、エペ・チャレンジ・マーテル・フランス・ポワチエ大会で勝利を収めた。
平三郎はたゆまぬ努力によって、1960年、1964年、1968年の三度にわたり、日本オリンピックチーム入りする。しかも日本チームは1964年東京オリンピックでは、ヨーロッパ以外の国のチームにとっては特筆すべき快挙である4位に入賞している。
平三郎はフルーレにおいて3回(1960年、1963年、1964年)、サーブルで2回(1961年、1967年)、エペで1回(1967年)全日本で優勝し、アメリカでもフルーレで2回(1967年、1968年)優勝したほか、世界選手権大会 (1969年、1987年、1988年、1989年、1993年、1994年、1998年)をはじめとする国際試合における日本チームの主任コーチを務めた。また1988年ソウル・オリンピックでは審判も務めている。
1966年、平三郎はトレーニングのためロサンゼルスを訪れる。伝説的な剣道家でフェンシング選手の森寅雄に師事したのである。そして1969年から1980年にかけては、ビバリーヒルズのトラオ・モリ・フェンシング・アカデミーの主任コーチを務めた。この間、平三郎はセレブリティーを指導し、また舞台のシーンのために振り付けも行った。またカリフォルニア大学ロサンゼルス校(1974年〜1980年)とカリフォルニア州立大学フラントン校(1980年〜2006年)では主任フェンシングコーチとして、2006年にリタイアするまで勤務した。
2004年には全米フェンシング協会の名誉殿堂入りし、2019年にはカリフォルニア州立大学フラトン校のアスリート名誉殿堂に入る。こうした高い評価は、平三郎が優れた才能を持ち、数多くのアスリートに影響を与えてきたことの証左である。
平三郎はフェンシングにおける才能によって国を代表したばかりではなく、長い歳月にわたり、その知識や技術を惜しみなく他者と分かち合ってきた。他のアスリートがポテンシャルを存分に発揮できるように助け、多くの人の人生をより良い方向へと導いてきた。スポーツにおける彼の功績はその才能にのみ見出されるのではなく、どんなバックグラウンドであっても勤勉さと決意があれば何事も可能になるのだということを改めて認識させるものである。
平三郎と妻のジーニーは結婚54年になり、3人の子どもと7人の孫に恵まれている。
パイオニア・スピリット・アワードは、長年にわたってコミュニティーで献身的にボランティア活動を行い、日本人/日系アメリカ人コミュニティーのリーダーとして活躍してきた人物に贈られます。
マリオ・G・レイエス
マリオ・G・レイエスは100年以上にわたってロサンゼルスで発行を続ける日系アメリカ人の新聞「羅府新報」の写真記者である。1973年、ルーズベルト高校のシニアであった時に、郵便&プレスルームで働き始めたのが羅府新報との関わりの始まりである。1979年、マリオはメキシコシティーに転居し、アメリカや日本、中国の映画にスペイン語の翻訳をつける映画会社で働いた。
1989年には羅府新報で再び働き始め、すぐに写真記者となった。使われていなかった倉庫を現像室へと改造し、スタッフが使える適切なカメラやレンズを購入した。そしてスタッフに対して写真の構成や光、奥行き、トリミングの技術などを指導した。
そして空き時間には、それまででたらめにファイル棚や空き箱、ゴミ箱などに適当に保管されていた羅府新報の写真コレクションを整理して、保存する仕事を手がけた。
南カリフォルニアの日系アメリカ人コミュニティーを記録してきた主要写真家の一人である。どんな小さな日系団体でも駆けつけ、夜も週末も祝日さえも投げ打って、記録しつづけてきた。しかもその団体に写真代を払うような余裕がなければ、写真の焼き増し代は取らなかったのである。
マリオはまたカリフォルニア・アジア系太平洋諸島系障がい者団体(APIDC)やアジア系アメリカ人ドラッグ濫用プログラム(AADAP)、アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会南カリフォルニア支部などの団体にはプロボノで働いてきた。
30年近くにわたってマンザナー巡礼の変化を記録し、2年に1度のツールレイク巡礼も10回近くにわたって撮影を続けてきた。過去34年のうち、32人の若き二世クイーンを撮影。2人が欠けているのはCOVID-19によるパンデミックのせいである。このほかにも南カリフォルニアのお盆も数えきれないほどに撮影し、その過程であちこちに友人を作ってきた。
またリトル東京の物理的な変化も記録してきた。ゴーフォーブローク記念碑の完成、議会名誉黄金勲章を受章した退役軍人ら、全米日系人博物館開館後初の見学者、天皇陛下の博物館訪問や陛下にお目にかかった敬老の住人らの顔…。
マリオのキャリアのハイライトは、彼自身にとってのヒーローである退役軍人、徴兵拒否者、「日本町」を始め築いてきた人々との出会い、生魚を食べられるようになったこと、そしてターミナルアイランドの名誉住民となり特製ハッピを手にしたことなどである。
「羅府新報」だけでなく、彼の写真は「タイム」「ピープル」「ロサンゼルス・タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」「LAウィークリー」や有名な日系アメリカ人の出版物などにも掲載された。
こうした歳月の間、平成天皇・皇后陛下、バラク・オバマ大統領、三船敏郎、マイケル・ジャクソン、ジェシー・ジャクソンら世界中のリーダーやセレブリティーも撮影してきた。ジョージ・タケイとブラッド・アルトマンの結婚式では主任写真家を務めた。彼がカバーした出来事の中でも有名なものは、1992年ロサンゼルス騒乱、O・J・シンプソン裁判、1994年ノースリッジ地震、いくつもの大統領選などであろう。
数々の賞も受賞しているが、中でも彼が最も誇りとしているのがスティーブ・ナガノのショートドキュメンタリー『千の言葉よりも』の被写体となったことである。
二世週祭インスピレーション・アワードは、日本人/日系アメリカ人コミュニティーでボランティア活動を行ってきた、二世週祭の「スピリット」を体現する優れた個人を表彰します。
パティ&スティーブ・ナガノ
パティ&スティーブ・ナガノは、2011年からリトル東京に暮らしている。住人となって以来、ビジュアル・コミュニケーションズ(VC)、公民権&リドレスのための日系(NCRR)、リトル東京歴史協会、日系プログレッシブなどのリトル東京の団体との関わりが増えた。
パティ(イトウ)は、日本人病院で生まれ、パサデナで育った。32年以上にわたり小学校で教鞭を執り、リタイアした。スティーブはボイルハイツで生まれ、ルーズベルト高校で教えていた。
彼らは、VC/NCRRの映画『正義のために立ち上がって、ラルフ・レゾーの物語』の制作に携わった。パティは、全米日系人博物館とUCLAアジア系アメリカ人研究センターの共同制作ビデオ、ヨシコ・ウチダの『ブレスレット』のナレーションを行なった。また、第二次世界大戦中の日系人強制収容について教育を行えるよう、教師を対象としたワークショップを数多く開催してきた。
パティはファンダンゴボンの支援も行い、「平和を願って折る:佐々木禎子を思いながら、広島・長崎への原爆投下を振り返る」を組織した。またサステイナブル・リトル東京でも働き、リトル東京サービスセンターの2016年のイベント「ビッグ武道館バッシュ」の開催にも尽力した。Covidパンデミックの間には、パティはリトル東京のレストラン5軒と協力し、70週間にわたってシニア・コンドミニアム、テラマチの住民に食事を届けた。これは住民に食事を提供すると同時に、パンデミックの間、レストランを支援する役割も果たした。
スティーブは2011年からビジュアルコミュニケーションズ・デジタルヒストリーズに関わり、ロサンゼルス・アジア系太平洋系映画祭で毎年短編映画を上映しているほか、さまざまなコミュニティーのイベントや大学でも上映している。最近では、1981年にロサンゼルスで開催された「戦時転住・民間人抑留に関する委員会」の公聴会で150人以上が証言した23時間以上の証言(DVD13枚)にアクセスできるようにするプロジェクトを率いた。
彼はまた毎年「タナバタ・フェスティバル」では、ボランティアとして何日もかけて七夕飾りを吊るすための構造物を設置している。過去7年間は「リトル東京スパークル」の主要な担い手でもある。これは400人以上のボランティアがロサンゼルス・ストリートからヴィーニュ・アベニューまでのリトル東京を掃き、ゴミを集め、ガムを落とし、落書きを消し、窓を洗い、「ぴかぴか」にするコミュニティーの清掃活動である。2011年からはリトル東京の代表として近隣協議会にも参加している。
さらに、第二次世界大戦中の日本人強制収容に関するさまざまな収容所巡礼やイベントにも参加し、支援している。両親や祖父母の不当な体験は、すべての日系アメリカ人を結びつける一つの糸であり、日系人のアイデンティティーや、何のために闘うかに大きな影響を及ぼしている。そのため、不正義に立ち向かえるよう、学び、教育することは、彼らの人生において非常に大きな役割を占めている。
彼らは家族や友人との時間を楽しみ、特に日本への旅行を心待ちにし、リトル東京での生活を楽しんでいる。2011年の大津波の後、東北でのボランティアを行った。リトル東京で今の生活を送れることを幸せに感じているそうである!
彼らは、リトル東京を日系アメリカ人の土地として失われずに保ち、未来の日系人も楽しめる場所するための投資家を募る「リトル東京コミュニティー・インパクト・ファンド」の構築にも取り組んでいる。
二世週祭インスピレーション・アワードは、日本人/日系アメリカ人コミュニティーでボランティア活動を行ってきた、二世週祭の「スピリット」を体現する優れた個人を表彰します。
ビル・ワタナベ
ビル・ワタナベは1944年にマンザナー強制収容所で生を受け、数カ月後にカリフォルニアとオレゴンの州境近くにあるツールレイク強制収容所に家族と共に移送された。
彼は一世の父、ロクロウと、帰米二世の母、カツヨの下に生まれた。カツヨは福島から1930年代にサンフェルナンドバレーに戻り、花を育てて売っていた。ビルは1966年にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校で工学学士号を取得し、サニーベールのロッキード・ミサイル社に1年半勤務した。1967年9月からは1年間、東京の早稲田大学に留学した。
日本への留学は、彼の人生の中で最高の年の一つであり、楽しく、また日本各地を旅して回った。福島ではそれまで一度も会ったことのなかった親戚を訪ねた。そしてかなり上手に、少なくとも9カ月で覚えられるだけの日本語を話せるようになった。当時23歳のビルは存分に楽しい時間を過ごしたのである。
帰国後、ロサンゼルス市でエンジニアとして2年間働き、1972年にUCLAでソーシャルワークの修士号を取得。その後、アガペー・フェローシップ(アジア系アメリカ人クリスチャン・ミューン)、日系コミュニティー・パイオニア・センターでの勤務を経て、1980年にリトル東京サービスセンターを設立、32年間にわたり専務理事を務めた。リトル東京サービスセンターは、リトル東京に住む日本人と日系アメリカ人にバイリンガルの広範なソーシャルサービスを提供するために設立された組織である。
この間ビルは、理事会と共に、当初はスタッフ1名であった組織を、150名の有給スタッフを擁し、多面的なソーシャルサービスおよびコミュニティー開発プログラムを提供するまでに、その成長を導いてきた。スタッフの多くは、アジア系太平洋諸島系の8言語のどれか、またはスペイン語が話せるバイリンガルである。LTSCは、リトル東京のコミュニティーを強化するために、カーサ・ヘイワ、ユニオン・センター・フォー・ザ・アーツ、ファーイースト・ビルの改修、そして新たに建設されたテラサキ武道館など、数多くのプロジェクトの改修・建設を手がけてきた。ビルは2012年6月にLTSCをリタイアした。
LTSC在職中、ビルはアジア系太平洋系コミュニティー基金、アジア系/太平洋系カウンセリング&トリートメントセンター、奴隷・人身売買廃止連合など、アジア系アメリカ人コミュニティーにおける数々の重要なサービス組織の設立を支援してきた。 リトル東京では、リトル東京コミュニティーカウンシルやリトル東京歴史協会など、この歴史ある民族地区に大きな影響を与えたいくつかの重要な組織を設立、または共同設立した。
ビルはUCLAでMSW(医療ソーシャルワーカー)を取得。結婚してロサンゼルスのダウンタウン近くのシルバーレイクに住んでいる。正式にリタイアしているが、現在は「リトル東京コミュニティー・インパクト・ファンド」という新しいプロジェクトの代表を務めている。このファンドは、ジェントリフィケーションの影響を受けて危機に瀕しているリトル東京の伝統ある中小企業を支援することを目的としたコミュニティーベースの不動産投資ファンドである。
フランシス・K・ハシモト・コミュニティ・サービス・アワードは、南カリフォルニアの日本人/日系アメリカ人コミュニティーに対して傑出した支援を行なってきた企業や団体を表彰するものです。
風月堂
1884年、現在の文化堂が店を構える場所に、最初の日本のビジネス「カメ」レストランがオープンし、リトル東京が作られていくことになった。その後、1903年に岐阜から移住してきた鬼頭精一がウェラー・ストリートに「風月堂」という和菓子店を開業した。その後、風月堂はファースト・ストリートに移転し、風月堂の繁栄と共にリトル東京も栄えていった。リトル東京で最も長い歴史を持つ家族経営の店であり、来年はオープンから120年目を迎える。
精一は、1941年から一家がハートマウンテン強制収容所への移住を余儀なくされるまで店を経営した。一家は終戦まで収容所にいたが、戦後、精一の末息子のロイが、タナハシ家の協力を得て、1946年5月5日の子どもの日に「風月堂」を再開させた。
数年後、店の建物が取り壊されることになり、セカンド・ストリートに移転することになった。1957年、現在の315 イースト・ファースト・ストリートに戻り、ロイが単独経営者となった。
1980年、ロイの末息子であるブライアンが家業を継いだ。ブライアンのリーダーシップのもと、風月堂はその商品の品質とクラフトマンシップにこだわり続けてきた。現在、風月堂では、大福やおはぎなどの伝統的なものから、白餡や小豆餡にフルーツやチョコレートを加えたモダンなものまで、伝統的な餅、現代風にアレンジした餅、そしてスナック菓子の3種類を販売している。風月堂は、日系人コミュニティーにとどまらず、市内に幅広い客層を持つようになった。
三世代にわたって家族経営を行なってきた歳月のうちに、キトウ家は収容、恐慌、暴動、パンデミック、市の拡張による土地の接収、常に隣り合わせのジェントリフィケーションの脅威まで、想像を絶するさまざまな困難を乗り越えてきた。風月堂はにレジリエンスとサバイバルの忘れがたい物語が存在し、そのコミュニティーにおける重要性を考えると、リトル東京とロサンゼルス市の紛れもない象徴だと言っていい。二世週祭が始まったのが1934年であることを考えると、風月堂はさまざまな意味でリトル東京そのものであるとも言える。
過去数年、ブライアンは何度も店の改装を考えたという。 しかし彼は躊躇している。見た目は古いが、それこそがお客さんの記憶に残っている。彼は、30年以上前にロサンゼルスに住んでいたというある女性の話をしてくれた。リトル東京を訪れた彼女は、風月堂に入ると涙を流しそうになった。「私の記憶にあったリトル東京は全てなくなっていたけれど、風月堂だけは何も変わらずに残っていた。記憶そのままの店があったのです」。
これらを受けて、二世週祭財団は、このレガシービジネスの重要性と、そのリトル東京の歴史への貢献、日系コミュニティーへのサービスを称え、フランシス・K・ハシモト・コミュニティ・サービス・アワードを授与する。
2022二世週祭振付師
吾妻菊寿恵
吾妻菊寿恵はロサンゼルスに生まれ、UCLAで数学/コンピューターサイエンスの学士号、USCでコンピューターサイエンスの修士号を取得。ソフトウェアエンジニアとして11年働いた後、自分の情熱が教えることに気づいた。
二代目吾妻須満子に長年日本舞踊を学び、東京の吾妻流本部で名取と師範の資格を取得。師範取得後、数人の生徒を対象に舞踊教室を開くと、またたく間に人づてに生徒が増えていった。
現在はベンチュラ郡、ロサンゼルス郡、オレンジ郡で60人以上の生徒と、カウアイ島のカパアとリフエで15人の生徒を教えている。
菊寿恵は多くのコミュニティー団体でボランティア活動を行い、「ハワイヘラルド」紙で毎月子ども向けの日本文化コラムを執筆しているほか、編集者や数学の家庭教師としても働いている。結婚しており、3人の子どもがいる。
須満子、菊寿恵とその弟子たちは、長年にわたり、グリークシアター、ハリウッドボウル、ユニバーサル・アンフィシアターなどのプロの会場や、コミュニティーや非営利団体のための慈善公演で演奏してきました。
伝統的な日本舞踊を教える一方で、芸術的新境地も開拓し、伝統的な日本舞踊の技術とモダンな影響を融合させて、三世、四世、五世にもその踊りを教えてきた。二代目吾妻須満子は残念ながら2020年7月に他界したものの、菊寿恵が須満子のレガシーを継いでいる。彼女たちの貢献によって、アメリカの吾妻流は日本舞踊を通して日本文化の伝統を伝え、成長させている。
今年の二世週祭

姉妹都市
Nagoya, Japan
ロサンゼルスと日本の名古屋は、さまざまな国際都市間の友情を育むためのアイゼンハワー大統領の外交プログラムの一環として、1959年に姉妹都市になりました。毎年、ロサンゼルス市の役人、コミュニティのビジネスリーダー、二世週の会長とプリンセスたちを含む親善代表団が、名古屋祭りに出席するよう招待され、参加しています。
姉妹祭り
二世週祭は、北カリフォルニアの桜祭りやハワイの桜祭りなどの姉妹祭りと繋がりがあります。

北カリフォルニア桜祭りは、アジアの伝統を祝うカリフォルニアで最も有名な祭典の1つであり、西海岸最大の祭典です。 1968年以来、このお祭りは文化の架け橋として日米間の継続的な同盟関係を育む役割を果たしています。

桜まつりは、1953年に始まったハワイ州で最も長く継続的に開催される民族的お祭りの一つであるという栄誉を保っています。時代は変わりつつありますが、このお祭りの目的は、日本文化の永続化と、日系人の若い女性の生活を豊かにし続けることです。